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虚続 
2011/11/07 Mon. 00:00 [edit]
壁掛け時計をついに壁に掛けました。
せみです。
〆

継続は力なりと言うけれど
せみです。
〆

継続は力なりと言うけれど
実際どれくらいの継続が「力」たり得るのか
明確な継続の目標がある?
一体どこまで継続したらそれは自分の力になる?
そもそも本当に継続は力になる?
例えば毎日一時間英語の勉強をするという「継続」と毎日朝10分新聞を読むという「継続」があったとして、はたしてこれらは本当に同じスパンでの「継続」で力足りうるのか。
多分前者は一週間も経てばそれなりの力になるだろうし、そもそもそんな継続を維持できたという精神力・忍耐力からしてかなり評価されるべき事柄だろうけれども、毎朝10分新聞を読む程度の継続力が一週間で実るかと言えば答えはノーだろう。
いや、そもそも一週間程度を継続と定義すること自体間違っているのかも知れないが、それでも英語の勉強を毎日一時間一週間というのはわずかでも確かな力がつくことにかわりはないだろう。
では堕落は?
堕落を継続すれば力になるのか?
何の力に?
堕落の力、か。
ではそもそも「継続」しなくても力たり得るのか?
何かを成し遂げようとすることに時間が必要なのは確かだが、ある日ある瞬間を境に素晴らしいアイデア・発想が浮かんでそれが一瞬にして己の力になるという可能性もあるのではないか。
ならばそもそも継続すること自体無意味だし、常に新しい何かに向かって前進・革新していかなければならないのではないか。
同じ事を延々繰り返し同じ場所に延々留まり過去の事象に延々囚われているようではその場に留まってその場でしか発揮できない力を溜め続けるだけではないのか。一歩前に進んでしまえばそこで身につけた力は発揮されないのではないか。
「これだけやったぞ!」という自信からる力など求めてはいない。
もっと確かな、力と呼べる力を得られるのはいつなのか。
それとももうすでに得ていることに気付けていないだけなのかもしれない。
ではなぜ私たちは「継続」するのか?
一つのことをこれだけやったぞ!という達成感に過ぎないのかも知れない。
そもそも先に述べたように「継続」の期間に対する定義が著しく曖昧で、それはつまり己の中での「自信」に直結する期間と言うことだ。
もし英語を一日一時間一週間やっただけで「これが僕の力になった!」と考えるのであればそれはもうすなわち立派な継続であったといえるし、「いやいやこんなもんじゃあと三週間!」と思うのならばそれはまだ継続ではないといえよう。
いや、そもそもある一定期間で満了してしまうのならそれは「継続」ではないじゃないか。
では一体いつまで僕は同じ事を継続し続ければいい?
今行う行為が「力」であったと確信出来る未来までは唯ひたすらに同じ事を継続し続けなければいけないというのか。
小・中・高・大と継続し続けた勉強が「力だった」と確信できる未来まで僕は未来永劫勉強を続けなければいけないのか。中学で習った「維管束」という理科の知識が力になったと確信できる未来なんてとても来そうにないというのに。
結局のところ「継続」は力たり得るのか?
たり得るのであろう。
毎日何千回と素振りを続けたプロ野球選手がいるように、ただひたすらに同じレーンを往復し続けた水泳選手がいるように、一つの神秘を解明し続けた科学者がいるように、継続は確かに力となるのだろう。
ではその溜めに溜めた「継続」の力を発揮する場所はどこなのか?
そもそもそれらが発揮される場所は訪れるのだろうか?
無意味な継続はただの体力の浪費に過ぎない。
今この瞬間の継続は、いつ僕の力になってくれるのだろうか。
力にならないと諦めた次の瞬間実は力になってしまうのではないか?
結局僕らは、無意味かも知れないこの継続をやめられない。
category: 駄文
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